絵島生島事件で引き締めを図るも、制御が難しかった大奥暮らしの「ストレス」
「将軍」と「大奥」の生活④
吉宗の時代はともかく、先に指摘した理由により大奥の取り締りは難しかった。大奥を制御できる将軍次第の面が強かったため、吉宗のように大奥を取り締まる意思が将軍になければ、元の木阿弥(もくあみ)とならざるを得なかった。
次の9代家重(いえしげ)以降は、吉宗に抑え付けられていた大奥が巻き返す。そんな大奥の威光を利用する形で政治力を強めたのが老中田沼意次(たぬまおきつぐ)だった。要するに、御年寄と結託(けったく)することで政治基盤を強化した。一方、大奥は田沼と手を結ぶことで、奥女中に課された諸規則を骨抜きとし、贅沢な生活に耽(ふけ)った。

役人あしらいの図
御末たちの集まる詰所の前を広敷側用人の新入りが通りかかったりすれば、男性と接する機会が少ないため、顔型を灰で取るなどからかわれた。『風俗画報 御末詰所悪戯の図』/国立国会図書館蔵
■吉宗と同様に大奥改革を実施した定信は将軍ではなかったがために失脚要因に
これに危機感を強めたのが、11代家斉を補佐して寛政(かんせい)改革の断行を決意した老中松平定信(さだのぶ)である。定信は祖父吉宗の意思を継いで御年寄の抑え込みをはかる。大奥の予算をそれまでの3分の1にまで切り詰めることで贅沢な生活ができないようにするが、当然ながら大奥の猛反発を買う。失脚の原因のひとつとなった。
外出が極度に制限された生活を強いられたことで、奥女中たちのストレスは自然と溜まった。人間関係の悪化につながり、その結果、いじめが多かったことも想像するにたやすい。奥女中として奉公するに際し、同僚の陰口をたたいたり、同僚たちの人間関係を裂くようなことはしないと誓わせたように、幕府もそんな実情は良く分かっていた。そのため、大奥で定期的に催される行事でストレスを発散させようとしている。
節分の日、大奥を管理する御留守居が豆を撒(ま)くことになっていた。豆まきが終ると、奥女中たちで胴上げしてその着衣を引っ張るような行為が慣例化していたが、ストレスを発散させるための無礼講(ぶれいこう)であった。
監修・文/安藤優一郎
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